日大アメフト部違反タックル問題

2018-05-30

日大アメフト部の当該選手によって関学大QB選手が全治3週間のけがをおった事件は、毎日大きく報道され社会問題にまで発展した感がある。

暴力的指導ができなくなって以降、古い体質の指導者らは、選手の人権を無視するような言動を浴びせるなどして、精神的に追い込む指導に変えたと聞かされていた。

優秀な選手を精神的に追い込んで強くするというのが前監督の指導方法だったらしい。さらに、部内で近年暴力が横行していたことも明るみになってきた。

暴力や理不尽な言動によって選手を精神的に追いこむ指導によってしか、選手を上達させる術を知らない指導者がいることに驚かされる。そして、理不尽な指導を受けた選手らは、そのことによって強くなったと勘違いして指導者になるとその指導方法を真似るようになる。

理不尽な指導は連鎖していく。

さて、今回の事件で「大学スポーツのあり方」に言及する識者が多い。教育の範疇でのスポーツ活動は「人間形成(人づくり)」であるから、暴力や理不尽な言動による指導はあってはならないとする論調が多い。

しかし、私は教育現場で行われるスポーツ活動だからこそ、暴力や理不尽な言動による指導が容認されてきたと考えている。明治期以降、日本のスポーツは学校で発展してきた。例えば、ベースボールはいきなり学校に入り込んで「野球」となった。学校で行われるスポーツ活動は教育の一環とみなされた。

教育の一環であるからこそ、暴力や理不尽な言動に耐えさせることによって「人間形成」がなされる、という論法がまかり通ってきたといえないだろうか。

遊びであれば、暴力や理不尽な言動による指導が入り込む余地はほとんどない。教育だからこそそれらが容認されてきたともいえる。

さらに、教育現場で行われるスポーツは「負けられない」「負けてはならない」ものとなった。なぜかというと、学校対抗となったからだ。学校の名誉を背負って臨む試合は、負けることが許されないものとなった。

こうして日本のスポーツは、教育の一環であるといいながら負けられないという、相反する性質を抱えていびつなものになった。

私は、日本のスポーツが健全なものになるためには教育とスポーツを切り離すことが大切であると考えている。スポーツの技術や動作の習得を第一義とすることによってスポーツによる本来の人間形成がなされると考えている。

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