2011年10月26日

からだを捨てさること

 現在の身体運動(スポーツや武道)の考え方は、競技性や人間の陶冶(教育)におかれている。学校での体育活動をみれば一目瞭然。競技か教育か、その狭間でスポーツや武道が悲鳴を上げている。これらは容易には両立しない。

 合理的身体動作を「身体操作」というとすれば、その目的は何か。多くは競技性(パーフォーマンス)の向上やそこから派生する副次的な要素を目的としている。

 しかし、もう一つ最も吟味しなければならない目的がある。それは、身体を捨てさること。身体におよぼす力(パワー)を、私は「内力」と「外力」と説明してきた。あいていに言えば「内力」は「筋力」、「外力」は「重力」だ。しかし、実はもうひとつの「力」がある。それは武術でいえば「気」とか「意念」とか言われる。これら「気」や「意念」を概念という人もいるが、これらは概念ではなく実体だ。これらのパワーは、誰の「からだ」にも作用しているがほとんどの人は気づくことはない。なぜなら、「からだ」が「内力」や「外力」で動くととらえているからだ。「気」や「意念」の実感は、からだを極限まで合理化しそれを捨て去ることによってはじめて現れる。合理的身体操作を学ぶ真の目的はそこにある。

 よって、それらを知る方法は一つではない。スポーツや武道(武術)はその一方便でしかない。たとえば、座禅を組むのも同じこと。からだをある「型」に押しこめることによって、からだを捨て去ることを目的とする。合理的に静止することと合理的に動作することは同じことなのだ。人によっては日常生活を送ることによってその目的を達成しているかもしれない。

 スポーツの目的を「競技」か「教育」かととらえると動作の本質がわからなくなる。競技性や人間形成を離れた目的を見据える必要がある。

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