フェースブックにも書いたのだが、  先週、出版社の編集者と懇談・・・「先生の剣道論を書いて・・・」という訳で、来年の夏をめどに「剣道、武道論」に関する著書を執筆することになった。

 「本当のナンバ常歩」(スキージャーナル、2006)を含めて、剣道の著書を4冊発刊させていただいたのだが、剣道の本を書くというのは、ある意味「命懸け」だ。このことは、この世界(剣道)に身を置いたものでなければわからないだろう。

 以前、執筆をお受けしたときに、ある編集者の方から、「先生、本当にいいんですか」と聞かれたことがある。若いときに(若いといっても40歳代だったが・・)本を書くと、そのあと難しくなるという意味のようだった。とくに、常歩(なみあし)などの現代剣道と違うことを著すのは勇気がいる。

 5年ほど前に、20歳代の剣道家が「論文」を見て欲しいとおいでになった。非常に独創的な内容だったので共感した覚えがある。しかし、2週間ほど経って、またお見えになった時には、その独創的な部分が20行ほど削除されていた。理由をお聞きすると、ある剣道の大家から、「現代剣道の考え方とは異なるので削除したほうがいい」と指導を受けたとのこと。とても残念なことだ。若い剣道家が自論を主張することができないのだ。

 「本当のナンバ常歩」のエピローグに「剣道は50年後残っているだろうか」と書いた。私は今でもそう思っている。剣道や身体操作を学んだり調べたりすると、なおさらその感が強くなる。

 例えば、「竹刀は日本刀の代用ではない」と感じたり考えている剣士は多くいるはずだ。また「剣道は競技である。そして競技として発展させるべきだ」と考えてる剣道家もいると思う。これらの見解が正しいと言っているのではない。これら現代の剣道界と異なる見解が言えなくなっていることが残念でならない。

 ある方は「剣道は中央集権化している」といった。昔は、地方にも様々な剣道の技術や身体操作法が残っていた。しかし、剣道の捉え方や技術を画一化して、それでなければ認めないこととなった。とても恐ろしいことだ。

 現状では、常歩剣道についてもそうだが、現代剣道と異なる内容を書くことは、ある集団から離れることを意味するのかもしれない。剣道を書くというのはそういうことだ。

 執筆に取りかかるにあたり、自分を鼓舞するために、こんな記事を書いてしまった。

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