先日から、有名剣道家の不祥事が伝えられた。「剣道は人間形成が目的なのに・・・」という論評が聞こえてくる。しかし、批判を恐れずに言えば「武道によって人間形成がなされる」というのは錯覚だ。さらに正確に言えば、「武道の技術性の修練によって人間形成をがなされる」ことはない。

 武道(剣道)の修練によって形成される人間とは、どのようにイメージするであろうか。「武士的な人格」というようにイメージするかもしれない。武道を真面目に取り組むことによって「道徳的精神性」や「伝統的行動様式」が身についた武士のような人間をイメージするであろう。ところが、武道の修練によって、そのような人格が形成されるのではない。昔の武士は、生まれながらにして「武士的な人格」が形成されるように教育を受けていた。「武士的な人格」を持った人間が剣術(剣道)などの武道を修錬していたと考えるのが自然である。

 「武道をすれば人間形成がなされる」と感じるのは、武道の修行体系に多くの「統一化された行動様式」が含まれるからである。例えば、道場への入り方、整列の順番、正座の仕方、稽古前の礼法などだ。これらの「統一化行動様式」、つまり稽古のための決まりごとが多いために、私たちは「武道をすれば人間形成がなされる」と錯覚するのだ。

 よって、剣道(武道)によって人間形成がなされるためには、技術の修練の周辺、つまり稽古の前後などで、人間としてまたは武道家としての心構えを教授する必要がある。この武道の技術構造と人間形成の関係を理解しないと、明治時代に文部省が何度も指摘しているように、剣道(武道)の修練によって「粗暴な人格」をつくることになりかねない。

 武道によって人間形成がなされるというのは、「武道によって人間形成がなされることが望ましい」という逆説的な意味なのかもしれない。「逆説の武道(剣道)観」が必要である。

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