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 ロンドンオリンピックも前半戦が終了。いよいよ、陸上競技がはじまる。日本選手の活躍に一喜一憂する毎日だ。水泳はメダルラッシュ、体操競技では、団体戦でのミスを帳消しにし、個人総合で金メダルを獲得した内村航平選手の精神力には驚かされた。後半戦の日本選手の活躍も楽しみである。

 さて、柔道競技では判定が覆る事態が発生、体操競技でも日本コーチの抗議によって団体で銀メダルをが確定、バドミントン女子ダブルスでは「無気力試合」により4組8人の選手が失格となった。

 武道を実践している立場からは、これらの事態は競技スポーツの限界が見えてくる。競技とは客観的な優劣によって勝敗を決定する。客観的な優劣とは、言うまでもなく可視的な優劣である。しかし、武道は元来、客観的な優劣とは別の価値(評価)体系を持つことを特性とする。その一つが、技の洗練度である。武道の修練は技の精度を上げていくことだ。これはスポーツも同様である。しかし、武道では、その技の洗練度と可視的な優劣は必ずしも一致しないことを前提とする。よって、勝負に勝つことは、決して第一義とはならない。日本の伝統的身体運動文化をみると、勝敗にはそれほど固執していなかったことがわかる。勝敗よりも技の洗練度(完成度)を課題とした。著書にも紹介したのだが、日本の「水錬」には、明治時代に競泳が入ってくるまでは、速く泳ぐという観点はなかった、速さという客観ではなく、それぞれの泳法を極めることを目的とした。

 柔道では、相手の背中の大部分が畳に接することが「一本」の条件である。よって、競技としての柔道は技の洗練度よりも、相手の背中を畳に接することが第一義となる。20年ほど前に九州の著名な柔道家(当時80歳代であった)とお話をさせていただくことがあった。

「技が完全にかかると相手が回転しすぎて、背中から落ちないことがある。現在のルールでは一本ではないが、技の完成度から昔は一本と判定する審判も多かった・・・・」

 さらに、武道の技の洗練は、その目的を相手を殺傷することから、自身および自他を統一することに向かうことになる。よって、その技の評価は、相手への作用も超えることとなる。つまり、「相手を打っても打たなくても」・「相手の背中が畳に接しても接しなくても」・「矢が的に当たっても当たらなくても」、その技は同等の評価を得ることとなるのだ。柔道の試合を見ながら、武道の「競技化」の限界とともに、客観的優劣を離れることはないであろう競技としてのスポーツの限界もみえてくる。

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